年間第1主日 〜 年間第12主日



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             年間第2主日 2012-1-15  B年   グイノ・ジェラール神父

         サムエル上3,3-10,19 Tコリント6,13-1517-20  ヨハネ1,35-42

    7日に基づいて創造を物語っている創世記の本のように、ヨハネは自分の福音の初めを書きました。 確かにヨハネの最初の話は、一週間かかります。 この話はカナの披露宴で終わりますが、この日は7日目に当たります。 この事を知るのは、とても大切です。 何故ならヨハネは、新しい世界、新しい人類を作ろうとしている方として、キリストを紹介しているからです。

  1番目の日に、洗礼者ヨハネが自分よりも偉大な方の到来を告げ知らせます。 2番目の日に、洗礼者ヨハネは「神の小羊」としてイエスを指し示します。 3番目の日に、アンデレとヨハネはイエスの後を歩むようになります。 今日、私たちはこの話を聞きました。 4番目の日に、アンデレが自分の兄弟シモンをイエスの所に連れて行きます。 5番目の日には、ガリラヤを目指していたイエスはフィリポに「私に従いなさい」と言われました。 そしてフィリポがイエスに友人のナタナエルを紹介します。 6番目の日は安息日です。 何も出来ませんでした。 7日目に、イエスと彼の新しい友達が招かれたカナの披露宴が催されました。 この週間が終わるとイエスは自分の栄光を現され、弟子たちはイエスを信じました。(ヨハネ2,11) 

  今日の話によると、イエスは振り向いてアンデレとヨハネに「誰を求めているのか」と言わずに、「何を求めているのか」と尋ねます。 その意味は「何がして欲しいのですか」になります。 イエスの質問にアンデレとヨハネは、他の不思議な質問によって答えます。 「どこに留まっておられるのですか」この質問はある意味で、次のように言う事ができます。 「私たちは長い間、メシアを探し求めました。 長い旅でした。 もし休む場所があれば……あなたのそばに憩いを見出す事が、いったい出来るのでしょうか」 イエスは「見に来なさい。」と答えられます。 そこでアンデレとヨハネは、夜通しイエスと留まりました。 創世記の本は新しい創造の前に何回も「夜があって、朝が来て」と繰り返します。 アンデレとヨハネにとって、夜の暗闇から朝の光へ、つまり、夜を通り過ぎる事はキリストと共に大冒険の始まりです。 

  この朝にアンデレは自分の兄弟シモンと出会い、アンデレの心にあった全ての疑いが消えました。 アンデレは最初にイエスと出会った時に「ラビ」と呼びましたが、しかし兄弟シモンに向かって彼は確信を持って叫びます。 「私たちはメシアに出会いました」と。 アンデレがキリストについて証ししましたので、ヨハネは福音の中で2回だけアンデレについて述べるようになります。 ヨハネは アンデレについて話される時の状況は、とても意味深いです。 まずパンの増加の時に、アンデレが5つのパンと2匹の魚を持っている少年を見つけて、イエスのもとに連れて行きます。(ヨハネ6,)アンデレの行ないは、永遠の命と命のパンについてイエスの説教を導入します。 次にエルサレム入場の日にアンデレは、またイエスのところへギリシャ人を連れて行きます。(ヨハネ12,20-26) そのきっかけで、イエスは彼らにご自分の受難と復活、そして受ける栄光について語りました。

   アンデレと言う人は、人々をイエスに出会わせる人です。 更にその際に、その人々が、自分の信仰生活のために、キリストから肝心な打ち明け話を受けることが出来るのです。 しかし、大勢の人にとってはイエスを見つける事はとても難しいです。 私たち自身の努力が無駄である時、深い信頼を持ってアンデレが私たちをイエスのそばへ連れて行くように願いましょう。 確かにイエスと真心から出会いたい人がいれば、聖アンデレのせっかちな助けによって容易にイエスと出会う事が出来ることを、よく知ってください。

  「何を求めているのか」この質問は、今日イエスが私たちに尋ねるでしょう。 私たちはキリスト者であるからこそ、「あなたはどこに留まっておられるのですか」と聞く必要はありません。 何故なら神が本当に留まる場所は人間のうちにあります。 また、人間の本当の住まいでは 神はのうちにある事を、私たちはよく知っているからです。(
Tヨハネ4,12-13) アンデレ、ペトロ、ヨハネと同様に、ある日、私たちは救い主を見つけました。 イエスの直ぐそばに留まることによって、私たちはこの事実を証ししなければなりません。

  この日に当たって、アンデレのようにキリストまで私たちを導いた人々のために、神に感謝しましょう。 彼らは両親、友人、司祭、仕事の仲間であるかも分かりません。 今日こそ、神を発見した若いサムエルの喜びが、私たちの心を満たしますように。 今日こそ、キリストと共に生き、彼と共に留まりたいアンデレ自身の望みが、私たちの人生の、あらゆる面で満たすのが望ましいです。 最後に至る所でキリストを宣べ伝える使徒パウロの熱意を私たちの熱意としましょう。福音を宣べ伝えたい私たちの決意が決して弱くならないように。

  人々をイエスのもとへ連れて行き、彼らがイエスと共に歩む事が出来るのは、私たちの使命です。 神から来る私たちのこの使命は、とても美しく、平和と喜びの泉です。 意識してもしなくても、私たちの使命は周囲に沢山の恵みをまき散らします。 イエスに属する喜びが、人々が私たちと共にイエスを発見する助けとなり、同時に、私たちに彼らを招く勇気を与えますように。 確かに私たちを囲んでいる人々に「見に来なさい」と言うために、私たちは神から選ばれ召されているのです。 アーメン。




       年間第3主日  2012-1-22   B  グイノージェラール神父

              ヨナ3,1-5,10   Tコリント7,29-31     マルコ1,14-20

    年間第2の主日から、典礼は様々の人々の召し出しについて語っています。 先週は、若いサムエル、アンドレ、ヨハネとペトロの召し出しの話を聞きました。今日は、預言者ヨナ、イエス、そして彼の最初の使徒たちの召し出しの物語に耳を傾けましょう。 神はご自分の賜物の主人で、漁師であろうと、羊飼いであろうと、たとえ神を迫害する者であろうと、ご自分の望む人に恵みや賜物を与えられます。 神は才能に恵まれた人、尊敬される人、または賢い人だけを呼ばれるのではなく、神自分が呼ばれる人々皆を能力のある、また値打ちのある、賢さにあふれる人にします。 ただ神は 選ばれ、召されたた人や遣わされた人が、自分自身が見て聞いたものについて人々の前で証しすることだけを望まれます。(Tヨハネ1,4

  使徒たちと預言者たちの召しだしの類似を良く示すために、マルコは列王記上19章を参照にしながら、今日の話の個所を書きました。 エリシャは農夫でしたが、呼ばれるやいなや、自分の仕事を直ぐに止めて、預言者エリヤについて行くためにすべてを捨てます。 マルコはイエスの最初の使徒たちの召し出しを叙述するのに、同じ言葉、同じ状態と立場を使います。 エリシャのように、ペトロ、アンドレ、ヤコブそしてヨハネは個人的に呼ばれています。 エリシャのように、彼らはすぐ自分の仕事をやめ、イエスに付いて行くために、すべてを捨てます。 しかし、彼らの使命は、今、マルコがその逮捕を知らせたばかりの洗礼者ヨハネの使命のように危険です。 なぜなら、イエスの弟子たちは 全ての預言者たちのように死の危険にさらされています。 イエスと共にいる彼らの歩みは、十字架の足下に彼らを導くでしょう。 確かに、弟子たちの歩みは 先ずイエスの十字架の足下に、続いて彼ら自身の十字架に、必ず彼らを導くでしょう。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ8,34

  ダマスコへの道で、キリスト者の迫害者であるパウロは、復活したイエスと出会い、同時に十字架の神秘を発見します。 使徒となった彼は、十字架の神秘について、また十字架に付けられたイエスについて話すのを止めません。 彼にとって悪いキリスト者とは、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」です。(フィリピ3,18) パウロは十字架がスキャンダルである事を隠しません。 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(1コリント1,18) 使徒としての召し出しを自覚しているパウロは、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」(ガラテヤ2,19b)と言い、また更に「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コロサイ1,24)とまで言っています。

  神の呼びかけは いつも、回心や今までと違った生き方に導きます。 すべての召し出しはまた、他の人々への奉仕に尽くすように急がせます。 このように大天使ガブリエルのお告げを受けたマリアは従姉妹エリザベトのところへ急いで行こうとし、使徒たちはイエスに直ぐに従います。 預言者ヨナは神のメッセージを宣言しようと急ぎます。 ニネヴェの大きな町を横切るには3日間かかるにも関わらず、それをヨナはほとんど1日で走りぬけました。「後、40日すれば、ニネヴェの都は滅びる!」だから無駄にする時間はないと彼は叫びます。 勿論、ニネヴェの人の反応は素早いでした。 「すぐにニネヴェの人々は神を信じ」彼らは回心します。 彼らの日常生活はこの急な回心によってひっくり返ってしまいました。

  聖パウロとキリストの使徒たちは、受けた召し出しによって、救いのよい知らせを宣言しながら、世界中の道を走ります。 あらゆる種類の苦難のうちにあって、彼らは十字架の神秘を生き、ヨナの警告を「定められた時は迫っています。・・・この世の有様は、過ぎ去るからです。」(Tコリント7,2931)と繰り返し伝えます。 人々が彼らの言葉に耳をかそうとしない時、弟子たちは時を移さずにキリストの忠告に従い、直ぐに他の場所へ行きます。(マタ10,14

  信仰によってキリストの弟子になった私達は、どのように自分の周囲に救いの良い知らせを広げようとするでしょうか? 私達は聖なる神、生きる神の証人である事を示すために、どんな動機をもっているでしょうか? 信仰のうちに成長し、忠実にキリストに従がうために、私達の使命の障害となる物事を,とても大事なものさえも犠牲にする心構えが出来ているでしょうか? キリスト者としての召し出しを確実なものとし、それに伴う試練や失敗や苦難を私達は怖れていないでしょうか? 最後に私達は本当にキリストのために、キリストによって、キリストの内に、キリストと共に生きたいと望んでいるでしょうか?  確かに、キリスト者の使命とは、今、述べたこの生き方の状態、つまり、救い主キリストと一致している喜びの混じった絶え間ない回心そのものだからです。 アーメン。  



          年間第4主日2012-1-29 B   グイノ・ジェラール神父

         申命記18,15-20      Tコリント7,32-35     マルコ1,21-28

    安息日にイエスは弟子たちと共に、カファルナウムの会堂に入ります。彼ははじめて公に話し、最初の奇跡が行なわれます。マルコはイエスの教えの内容を知らせません。ただ、イエスが律法学者のようには、教えないとだけ言います。イエスの教えを聞いた人々は、皆驚いて「これは一体どういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。」と言います。

  私達の生活している世界では、権威の評判はあまりよくありません。私達は権威を、一種のだんだん独裁的権威主義になる権力と、あまりにも度々混同してしまっています。 権威を持つと言うことは、たとえ、彼らの善になるからであろうと、物事をほかの人に押し付けることではありません。権威はいつも、他の人への奉仕と、人間の発展に奉仕するものです。両親や教師の権威は、必要なものです。子供や生徒に与えられた両親や教師の忠告や警告のお陰で、彼らが段々発展するからです。もっと根本的なものは、子供たちに与える良い模範によって、両親や教師が権威のある人として認められると言うことです。言ったり教えたりする事を行なう人だけが、ある種の権威を得ることが出来ます。言うことと結びつかないものは、いつか軽蔑の的となるか、悪評の根源となるでしょう。

  マルコはイエスが行使する権威は神ご自身の行使する権威であることを、私達に分からせたいと望んでいます。カファルナウムの人々はイエスの教えに感動しました。というのは、イエスの言葉が直ぐに結果を得たからです。律法学者は宗教的規則をとても良く教えますが、彼らの演説には結果が伴いません。特に、律法学者は従うべき模範にはなりません。律法学者たちは人々の背に掟の荷物を置く才能がありますが、彼らはそのことが大人として、責任を持つ人として、人々を成長する助けになるかどうか、全く知ろうと努めません。律法学者の権威は、権力の悪用である、独裁的権威主義です。反対に、イエスの教えは自由を与えます。

  イエスが悪魔を追い出される時、悪の影響力のもとにあった者を自由にされます。 彼の権威は自由に生きる可能性を与えます。キリストは解放への道を開くために、傷つき、辛い思いをし、捕らわれている人と、愛によって繋がります。律法学者のように、つまらない掟や戒律と律法を繰り返し教え込むためにご自分の時を過ごされるよりも、イエスは人々により良く生きる希望を与えようとします。イエスの数々の奇跡は同時に、神の解放者としての愛と信仰の力を表明します。すべての傷ついた人たち、鎖に繋がれた人たち、のけ者にされた人たちに対して、救いは確実に差し出されるキリストの手です。それは神の似姿として創造された人間の人格を再発見するためです。

  度々、病気や身体障害、または私達が支配できない圧迫や妨げは、人間の自由を邪魔しています。しかし、また他の鎖に私達が繋がれていることもあります。それは多分、体に毒するアルコールであり得るし、心を麻痺させるお金でもあり得、あらゆる赦しを拒否する恨みでもあれば、祈りを妨げる様々の必要でない活動でもあり、単純さや謙遜さを殺す自己愛や傲慢でもあり得ます。 それはまた私達の周囲にいる人達と眼差しを交わすのを妨げるテレビやコンピューターの画面でもあり得ます。確かに、私たちはしばしば悪の力の共犯者です。時々、私たちも、悪霊と同様にイエスに向かって「邪魔しないでくれ!」と叫びたいのです。

  今日も、私達は自分の計画、また私達の鎖でもあるものを抱えて、イエスとここで出会います。 多くの姿を持っているこの奴隷の鎖によって 私達の心が縛られていることを無視したり、否定したりしないように努めましょう。むしろ、イエスがあらゆる権威をもって、神の子としての自由を私達に下さるように、彼に向かって叫びましょう「主よ、助けてください!」イエスの眼差しは人間の奥深くにまでいきます。彼はひとの心の中にある考えまでも見抜かれます。だからこそ、イエスは人の内に留まりたいのです。実に、人を圧迫するためではなく、むしろ平和をもたらし、癒し、疎外する事の出来るすべてのものから開放するために、イエスは人の内面に現存されます。「神の国はあなたたちの中にあるのです。」(ルカ1721)とイエスは宣言します。確かに、神の国とは、私達の真っ只中にあるキリスト自身の現存です。私たちの内にあるイエスの現存は 大人として、また責任者として成長するように 私達に教え、あらゆる苦境から永遠に私達を癒やし救います。ですから、喜びをもって、主イエスの現存を自分たちの心によく守り、育てましょう。アーメン。



        年間第5主日  B年    2012年2月5日  グイノ。ジェラール神父

       ヨブ7,1-46-7    Tコリント9,16-1922-23     マルコ1,29-39

   どうして、悪、病気、苦しみ、死があるのでしょうか。 世の初めから全人類は、この質問に答えようとしているのです。 聖書は創世記3章を通して、悪は神から来るものではないと語っています。 むしろ、創られたものを管理する人の不従順の結果だと説明しています。 しかし、この説明は私たちを満足させません。

   全てを失ったヨブは妻の呪いの言葉を浴びながら、精神的、身体的に苦しめるサタンの攻撃を受けています。 ヨブはどうしても、自分の苦しみの理由を知ろうとします。 そばに来た友達はとんでもない説明でヨブを慰めようとします。 「あなたはきっと悪い事をしたから神が罰して、そのために酷く苦しんでいる」とか「あなたの利益のために苦しんでいる。 これこそ神のご意志なのだから、あなたの運命を承諾しなさい。神は愛する者を必ず試そうとしている」とか。 勿論ヨブはこの酷い説明を全て否定します。 そこでヨブは神に直接尋ねます。 しかしながらヨブ記の42章はヨブが望んでいる答えを与えませんでした。 ただ神はご自分の偉大さと、創造された創造物の美しさについてだけ、御自分の意見を述べています。 愛を持って被造物について話される神の言葉を聞きながら、ヨブは次のことを理解します。 すなわち大自然の秘密と神秘を理解し説明が出来ない限り、自分は命の神秘を知ることを絶対にしてはならない事をヨブは理解します。 この結論は私たち皆にも役に立ちます。

   3年間の間に、イエスは病人の苦しみを和らげる事、彼らを癒す事、また悪霊を追い出す事、さらに死に打ち勝つ事を明かに示しました。 イエスが行った奇跡を通して、神は悪のあらゆる形と絶えず戦っている事を示しています。 しかしイエスは、ほんの少しの病人しか癒していない事を認めましょう。 イエスは御自分の国と、御自分の時代の全ての病者を癒していませんでした。 更に癒された人は自分の信仰を表したからです。 ですからキリストが様々の奇跡を行ったことを知っても、今を生きている私たちにとって、何の役にも立たないでしょう。 イエスが悪と不幸の敵として御自分を示そうとした事を知っていても、それは私たちの人間的な状況を全く変化できません。 私たちは良く知っています。 津波であろうと、地震であろうと、疫病であろうと、神は物事の流れを変化させるために、指一本すら動かしていません。 それでは、ペトロの姑と御自分に紹介された全ての病人を癒すイエスの姿を見せる事で、一体マルコは何を理解させようとしているのでしょうか。 この出来事は随分昔のことですから。

  しかし、福音はいつものキリストの働きかけについて述べているのです。 大抵キリストは、先ず神の国を宣言し、そして、病人を癒し、最後には一人で祈るために、人里離れた所に退かれます。 朝早くイエスは同じことをするために、他の場所に移動します。 イエスにとっては救いの良い知らせを伝えるため、また人を癒すための最も良い方法は祈ることです。 キリストにとって、教え、祈り、癒しは切り離せないものです。確かに祈りによってイエスは御自分の使命のあらゆる面を一致させます。 それらは「慰めと赦しの言葉、忍耐、人々の言い伝えの尊重、人に与えられた心遣い、奇跡など」イエスにとっては唯一の祈りしかありません。 それは「神の国が来ますように。み心が行われますように。」です。 このキリストの祈りはいつも具体的な行いによって実現されます。

   御自分の使命を始めるために、イエスは最初の言葉として「神の国が近づいた」(マルコ1,15)と宣べ伝えました。 確かに新しい何かを始めようとしています。 イエスこそ、その由来です。 神の国とは全ての人が神に向かって「私たちの父よ」と言える世界です。 この国の中に悪、罪、死は全くありません。 そして人間が立ったまま、顔と顔を合わせて神を仰ぎ見る事が出来るのです。 昔、ほんの少しの奇跡を行うことによって、キリストはこの国の芽生えの印(しるし)を見せようとしました。 キリストが実現しょうと始めたことを、彼の弟子たちは自分のいる所で、あるいは、遣わされた所で行い続けるように召されていたのです。 次々に、パウロの旅路の仲間であるバルナバ、テモテ、シラスは奇跡を行う事によって、神の国は近づいたことを世界の人に見せました。 行われた奇跡はいつも悪と死に対してのキリストの勝利の印(しるし)です。 ところで、時の流れと共に、ほんの少しの聖人しか奇跡を行う事が出来ませんでした。 それも、大抵の場合は死んでからです。 そこで私たちはどのように悪と戦っているのでしょうか。 ご昇天の前にキリストがはっきり命令したように、私たちはイエスの名によって病人を癒すこと、悪霊を追い出すことをしたいのでしょうか。(マルコ16,15-18) このような奇跡を行う前に私たちは先ず、自分の周りの人に対して神について話すことが出来る人にならなければなりません。 そしてキリストの名によって何よりも先ず、何かを行うためには祈りの時をつくり、心と心を合わせてイエスと親密に話す必要があります

  マルコの話によるとペトロの姑が熱を出して休んでいます。 イエスは彼女に近づいて手を差し伸べ、彼女を立ち上がらせます。 この世では大抵の病気の人や弱い人は病院や老人ホームに遠ざけられます。 私たちが、キリストに倣って彼らのそばに行き、彼らに手を差し伸べるように誘われています。 この優しいやり方で、特にイエスが昔なさったことを 今し続けることが出来るのです。 私たちの祈り、私たちの信仰の証し、目に見える愛徳の動作によって、私たちは神の国を人々に近づける事が出来るのです。 ご存知のように神の国は「もはや死もなく、もはや、悲しみも、嘆きも労苦もない」(黙示録21,4) むしろ永遠の喜びと終わりのない平和があります。 私たちはその事実の証人です。 アーメン。



         年間第6主日  2012-2-12  B    グイノ・ジェラール神父

        3,16-19  Tコリント10,31-11,T  マルコT,40-45

   「それを触るな、汚いから」と、度々母親は自分の子どもに言います。 その子が早めに清潔で基本的な反射を身に付けるように、お母さんはしつこくそれを言うのです。 同様にその子に「君の手が汚いから、触るな、汚すから」と強く忠告します。 お母さんにとって、汚さない事と自分が汚れると言う心配は、物の清さ、清潔と体の健康、見せる外面的な姿など日常生活の悩みです。 すなわち、美しいものは綺麗です。 人々と関わるためには、どうしても綺麗できちんとした身だしなみが必要です。 清潔なものは人を惹きつけますが、汚いものは人を遠ざけます。 その上、汚いものは危ないと思われますから、人は自然に自分をそこから守ります。

  臭い服を着ているホームレスや、デキモノのある病人を前にして、私たちは恐れ、反射的に逃げようとする傾向を持っています。 出会った病者たちは、きっとイエスのうちに同じ反応を起こしました。急に現れてイエスの前に立っている、今日の福音に書かれている人は疫病であり、見苦しいです。 そして律法はこのような人を避けるように、命令しているのです。 しかしイエスは自分の恐怖と強い嫌悪感を乗り越えて、手を伸ばして自分の前に立っている人に共感して触れました。 イエスは、遠くから、ただ一つの言葉で彼を癒すことが出来たにも拘わらず、それをしませんでした。 例えば「ただ一つの言葉を言ってください」(マタイ8,8)とある百人隊長が、遠くから離れて自分の僕を癒すために、イエスに願った事を思い起こしましょう。 イエスは却って、伝染病の人にとても近くなって、愛情をもって触れます。 この憐れみの動作を考える時、システィーナ大聖堂の天井に描かれている、ミケランジェロのフレスコ画が思い出されます。 神は右の手を伸ばして、アダムに触れようとします。 彼に命の息吹を与えると言う場面です。

  四人の福音史家はキリストが悪霊に取りつかれた人以外に、全ての病者、死者、また法律で不潔と言われた人に必ず触れた事を書いています。 イエスを囲んでいた人々にとっては、この動作はつまずきとなっていました。 なぜなら律法によると病者や死者に触れる人は、あっという間に彼らの不潔の状態を受け不潔な者となるからです。 イエスは病気、罪、死よりも強いものである事を示すために、わざと不潔と言われた人々に触れます。 特に、イエスが人に触れるにはもう一つの理由があります。 それは私たちの全ての災いを背負うために、イエスは この世にお生まれになったと言うことです。 

  このように病者たちはイエスの清さを受け、イエスは彼らの不潔にかかる人となります。 キリストの病者との身体的な関係は、人間の状況に与っているイエスご自身の神秘、すなわち御言葉の神秘を現します。 「御言葉は、肉となった」(ヨハネ1,4)使徒パウロは次のように言っています。 「神は御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に遣わされました。」(ローマ8,3) またパウロは「キリストを私たちのために罪となさいました。」(
Uコリント5,21)と言う事まで書きました。 預言者イザヤは、来るべき僕が全人類の災いを背負う事は、神ご自身の意志であった事をあらかじめ預言していました。 「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ(イザヤ53,3)  確かにイエスは「世の罪を取り除く神の小羊」です。(ヨハネ1,29)

  福音の初めからマルコは病人に触れたので、イエスが不潔な者となった事を語っているのです。 「イエスはもはや、公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。」(マルコ1,45) この状態は始まったばかりですが、この先も、ずっと続きます。 なぜなら、3年後、邪魔になったイエスは十字架につけられるために、呪われた者として(ガラテヤ3,13) 町の外に連れて行かれるからです。(マルコ15,20)

  自分と同じ生き方をしていない人々に対して、私たちの社会は差別傾向を持っています。 普通の生活から追い出された理由は沢山あります。 若すぎる、または高齢者、病者、失業者、ホームレスなど、この世では一体何人の人が差別され、軽蔑されているでしょうか。 ヘブライ人への手紙が、谷間にいる人、差別された人に近くなるために、キリストを真似るようにと私たちを招いています。 「だから、私たちはイエスが受けられた辱めを担い、外に出てそのみもとに行こうではありませんか。」(ヘブライ13,13)健康な人である私たちは、自分が正しいと思っている考えから離れ、自分の支配と高慢の精神を捨てて、キリストと共に差別された人の味方となりましょう。 イエスと共に彼らの辱めを背負うために彼らに手を差し伸べましょう。 

  私たちはイエスに「御心ならば、私を清めることがお出来になりますと言えるでしょう。 主よ、ありのままにあなたの所に来ました。 私たちの罪と悪い傾きにも拘わらず、私を歓迎してくださるからです。 主イエスよ、信じます。 あなたが私を清め、私を癒すことを深く望まれますことを。」 私たちはまた、病人を癒すキリストとなる事もできます。 そうするなら、私たちは全ての偏見、噂、あらゆる差別を乗り越えて他人をありのままに受け入れ、その人の話を良く聞いて助ける事をしなければなりません。 キリスト者の役割は次のようです。 つまり、すべての人々が居心地の良いように、全ての可能性を探すべきです。 私たちは普段の生活の外に出て、人と出会う必要があります。 私たちは、一人ひとりが、神と全ての人と、たとえ彼らがどんな人であろうと、真の良い関係を結び合って生きるように召されているのです。 アーメン。




        年間第7主日  2012-2-19  B    グイノ・ジェラール神父

       イザヤ43,18-25       2コリント1,18-22    マルコ1,12-15

    私たちの神はいつも未来に向かっているのです。 預言者イザヤが「神は絶対に過去の出来事と犯した罪をご覧になりません。」と言っています。 神はいつもすべてを新たにするからです。 イエスが人間になって、私たちのために死んで復活してから、父なる神は彼を通してすべてをご覧になります。 主の名が教えているように「イエス」は私たちの救い主です。 言い換えれば、イエスは私たちを癒す「神の健康」です。 また、イエスは私たちを救う「神の赦し」です。 更に、イエスは私たちを神の子とし、永遠の命を与える「神の聖性」です。 コリントの手紙を通して使徒パウロは、それを説明しようとしています。 つまり、キリストによって贖(あがな)われ、聖霊によって生かされている私たちは「父なる神の栄光の賛美として」(エフェソ1,12-14)生きるために新たにされたのです。

  中風の人の奇跡を通してイエスは、はっきりと神御自身の心を啓示しています。 イエスは病人の罪と同時に彼の友達の信仰を見分けます。 イエスはまた、人々が自分たちの心に抱いている悪い考えを見抜いて、彼らを厳しく咎(とが)めます。 さて、自分の前に横たわっている人に「あなたは罪を犯した。 そのせいで麻痺した状態にいる」とイエスは決して言わないでしょう。 むしろイエスは、御自分の喜びを表しながら「起きて床を担いで歩け元気で自分の家に帰りなさい。 あなたの罪は赦された」と宣言します。 イエスにとっては、非難する事や咎(とが)める事よりも、赦す事や癒す事がとても易しいのです。 

  このことを考えると、キリストに似るために私たちは、どれ程長い道のりを歩かなければならない事であるかが分かります。 私たちにとっては人々に赦しと和解と一緒に生きる喜びを与える手を指し出すよりも、非難と厳しく裁く事の方が簡単です。 過去も犯した罪もご覧にならない神のようになるために、私たちは神と共に親密な祈りの生活によって、絶えず強められる事が必要です。 そして聖霊によって絶えず生かされるように私たちは、自分達の信仰と希望を共同体の中で養い、強め、分かち合う事が肝心です。 

  今日の福音は2種類の人を見せます。 即ち動く人と動かない人です。 先ず、中風の人は人々に依存しています。 彼は麻痺した状態で人々のしたいままに、彼が動かされます。 次に、群衆は家の入り口をふさいでいて、中風の人を家の中に入れるように誰も動こうとしません。 最後に、家の中に楽に座っているファリサイ派の人々は、キリストの態度を非難しています。彼らは自分たちの考え方と確実さによって縛られて、回心しようと全く動きません。

  この動かない人に反して4人の友達が、一生懸命動いています。 彼らについてあまり何もわかりませんが、確かに信仰をもってよく動いているのです。 出会った様々な困難を前にして、彼らはイエスのすぐ傍に自分の友達を運ぶように、屋根を剥()がして穴を開けるよう工夫します。 これこそ信仰です。 言葉によってではなく、行いによって物事が動き変化します。 私たちは自分の偏見や固い考え方の屋根、自分の頑固な確実さの屋根を剥がす信仰とやる気を持っているでしょうか。

  今日の説教の始めに、神はいつも未来に向かっていると申し上げました。 命と信仰生活は神から来るもので、いつも強い飛躍をもって未来を目指しているのです。 ご存知のように歩く事によって、人間が自分のバランスを見つけます。 バランスのある生き方を取り戻すために、ずっと横たわっていた中風の人は、イエスによって立ち上がりました。 神の方へ歩きたい人は、信仰の中に必ず必要な飛躍を見つけ、バランスのとれた人生を送る人です。 動きたくない人は、また自分の考え方を新たにされたくない人もキリスト者と呼ばれるには相応(ふさわ)しくありません。 キリスト者は 必ず歩み続けます。 私たちが救いのよい知らせを遠くまで伝えるために、キリストの復活は、私たちに聖霊の飛躍を与えて下さいます。 私たちの信仰を宣言する事によって、私たちはキリスト共に、この世を麻痺させている全てのものを破壊する事、この世を新たにする事が出来ます。 ですから、福音の4人と同様に、恐れずに、様々な屋根に上る事をしましょう。 そして、大声で私たちの信仰と希望を人々に宣言しましょう。(マタイ10,27 ルカ12,13

  来週から私たちは、四旬節の時に入ります。 この時は回心への長い道のりです。 又日常生活の中でキリスト者としての、自分の生き方について考え直すための貴重な時です。 四旬節は、神に栄光を与える未来を私たちに開きます。 何故なら神の愛に応える私たちの努力は、私たちを「神の栄光への永遠の賛美」としますから。 パウロはエフェゾの手紙の中で、それを上手に説明しています。 残念ながら日本語のすべての翻訳は、このテキストの美しさをなかなか示すことが出来ません。 この箇所に耳を傾けましょう。 「天地創造の前から私たちが、聖なる者、汚れの無い者になるために、神はキリストにおいて、私たちを選びました。 主イエス・キリストによって、私たちは神の愛する子となり、神御自身の栄光の賛美の誉れとなります。」(エフェソ1,4-6) アーメン



         年間第11主日 B年    2012617    グイノ・ジェラール神父

        エゼキエル17,22-24   2コリント5,6-10   マルコ4,26-34

    空の鳥の避難所となり、豊かな実を結ぶ、大きな木のイメージを使って、預言者エゼキエルは、神の国の発展について説明します。 聖書によると、鳥の住む場所となる木は、いつも神の近くに集められている全ての国々のシンボルです。 その為に イエスは述べている例え話の中で、この大きな木のイメージを使っています。 神と人間の神秘を表わす為に、聖書もイエスも自然の中で見つけるイメージをよく利用します。

  キリストの時代でも、私たちの時代でも、他人の成長は、解決出来ない神秘です。 御存知のように、一粒の種の中に何億の原子があります。 一つひとつの原子は、一つの核を持っていて、その回りを秒速三十万キロの速さで、数え切れない素粒子が回っています。 こんな事を知っていても、人は今も どうして命が種から現れるか、全く説明する事が出来ません。 種の成長は今も解決出来ない神秘です。

  私たちの人生と私たちの心の中に、神の国の発展を説明する為に、イエスは種の神秘を使います。 土に蒔かれた種が、どうして成長するかは誰もわかりません。 同様に、私たちが知らないうちに神の無限の愛が、私たちの内に成長します。 私たちの内にある神の働きが 計り知れない神秘ですが、平和と成長の活力を私たちに与えます。 毎日曜日、神の傍に来て、神の言葉を聴くことよって、自分達の心に、神の国を受ける準備をします。 イエスは 神の国がとても近いと断言しますし、そして宣言された救いのよい知らせを 私たちが信じるように キリストは私たちを誘い、導きます。

  早めに教会に来て、神と共に心を合わせて祈る人が、自分の生き方を変容する神の愛の賜物を容易に受け止めます。 神の言葉と祈りの内に 信仰、希望、愛は 私たちを成長させる必要な恵みを見つけます。 それは、私たちがキリストと共に 世を照らす光となるためです。

  私たちがキリストと出会えば出会う程、からし種の例え話と同様に、洗礼の時に受けた信仰は、私たちの人生のあらゆる面で成長しながら 希望と愛の枝を伸ばすでしょう。 特に赦しの秘跡によって、私たちの霊的な発展を妨げる物事を神が切り落とすことを承諾するなら、私たちが 空の鳥を守る大きな木となるに違いありません。 というのは、赦しの秘跡によって、私たちの心が大きく開かれ、ありのままに兄弟、姉妹を受け止める事が出来ます。 私たちの心に蒔かれた神の言葉によって、私たちは永遠に残る、役に立つ実を結び、そして必ず、愛の完成にたどり着きます。 しかし、自分たちの内に 偏見、嫉妬、憎しみ、赦しの拒否がある限り、私たちが 命の実を結ぶことも、愛に生きることも全く出来ません。

  神は謙遜に、静かに力をもって私たちの内に働いています。 私たちが知らないうちに 神が、ご自分の命と愛で私たちを満たし、絶えず私たちを清め、聖化します。 神から頂いた愛の賜物のために、私たちは神に充分に感謝を捧げる事ができるでしょうか? 無償で私たちに与えられている人生は、永遠の生命の種です。 私たちの日常生活の中にある全ての物事によって、神の内に隠されていることを知り、味わう事が出来ます。 土の中に蒔かれた種の例え話を聴きながら、新しい心で、こだまとして響く 使徒パウロの言葉を聴き分けましょう。 「私たちの人生は、キリストと共に神の内に隠されています」(コロサイ3,3)と。 ですから、いつか、私たちの人生は永遠の喜びの収穫となるように 切に、神に願いましょう。 アーメン。



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